芥川賞受賞作品「サンショウウオの四十九日」 作者 朝比奈 秋
この作品は、奇妙な物語である。
同一の身体が、二人の人間を有している「結合双生児」の物語である。
生れた時は、頭は右半分と左半分が非対称で、手足、胴体ともに正常な形である。
だから戸籍はひとりとして作られた。しかし、子どもの成長に伴って、いろいろな仕草言動に違和感が生じ、5歳頃になり、精密検査をすると「結合双生児」ということがわかった。その為二人目の子どもの戸籍を作ったが、役所と裁判所に医者の診断書(結合双生児)を提出し、裁判官が実際に子どもを観察して、戸籍が認められたのである。子供たちは、姉の杏と妹の瞬と名が付けられた。
だから、名前を杏と呼べば、ハイと左手を挙げ、瞬と呼べば、ハイと右手を挙げる。
杏が生理で出血した時、瞬は赤い血が幻覚のように感じられた。
実は、この話しには、伏線がある。
この子らの父親は、実は胎内双生児だったのである。
父の母(この子らの祖母)が出産したとき、先に男の子が生まれたが、生まれて間もなく異常に痩せていくので、検査したところ、男の子のお腹にもうひとり男の子(胎内双生児)がいたのである。先に生まれた男の子は病弱で、あとに生まれた男の子は丈夫に育ち、今の結合双生児の父親である。先に生まれた男の子は、結合双生児の杏と瞬の叔父にあたる。
いささか複雑な血縁関係であるが、この関係が、この本の題名「サンショウウオ」につながってゆく。
叔父が亡くなった葬儀に出かけた時、博物館館長の話しで、白黒二匹のサンショウオが互いに相手の陣地に入り、一つの円を為すことを「相補相克」と言い、対極が対等に循環している二つを統合して、円環となり「一(ひとつ)」を表現するという話しを思い出した。
杏は、自分たちは黒と白、それぞれが相手を喰いあって、円を為し「一(ひとつ)」になることを、想像した。
叔父の四十九日の納骨の日、杏は熱を発し、幻覚を見、瞬もまた幻覚を見る。
二が一になって消えてゆく。
この奇妙な物語は、私には理解しがたいが、芥川賞受賞作品なのだから、何か意味があるのだろうと思う。私には、今日の家族や企業、国家などの共同体のコミュニケーヨンが崩れていく状態を暗示しているのかもしれないと考えたが、皆さんはどう考えますか?
芥川賞受賞作品「バリ山行」 作者 松永 K三蔵
「バリ山行」(やまぎょう)とは、通常の登山道路から離れて、ひとりで道なき道を登る山行きを言う。バリはバリエーションの略である。
建設修繕会社は、不景気乗り越え策として、これまでの元請け方針を改め、大手建設企業の傘下に入り、下請け企業への方針転換をはかっていた。
建設修繕会社の業績に不安を感じている営業マン波多が、社内の付き合いのため山登りに参加するが、ひとり「バリ山行」をする同僚妻鹿(めが)に、仕事上助けられる。それを機に二人は「バリ山行」するが、途中事故にあい妻鹿に助けられる。
その同僚妻鹿が、仕事よりも、「バリ山行」を、生き甲斐にしていることに、その営業マン波多は不満を抱き、帰路事故に遭って、妻鹿に助けてもらうが、波多は親切心で「山より仕事を優先するよう」に言う。
波多が山から帰宅後肺炎で会社を休んでいた間に、会社方針転換に反対して、妻鹿は退職していた。波多は、妻鹿の姿を求めつつ、一人「バリ山行」に行く。
現代のサラリーマンの典型的な悲哀と、しかし、希望がどこにあるかを教える物語です。
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