「戦争への道と記憶」から「平和への道筋」へ
戦後79年という歳月が流れ、いつのまにか新たな戦前に向かっているかの錯覚を覚える今日この頃です。
私たち戦中生まれの世代は、戦争体験の記憶は、空襲や戦後の食糧難、傷痍軍人の記憶程度ですが、同級生には、父親や兄、叔父を戦争で失くしたり、満州や朝鮮半島から引き揚げたクラスメートがいました。就職先の職場では、上司先輩の多くは、戦争体験者でした。
しかし、令和の時代は、戦争体験者世代がいなくなり、わずかに私たち戦中生まれが、かすかな記憶を留めているにすぎません。
戦後、日本国民の全員が、戦争に反対し、平和を願っているにもかかわらず、国の政策は、戦争に巻き込まれることを想定して、日米同盟を拡充させ、沖縄では離島防衛・住民避難訓練が行われるようになりました。そのことについて、国民世論は様々に分かれて、賛否両論あります。
平和を願うことは、誰もが同じですが、そのための道筋が、それぞれ異なるのです。
今大事なことは、異説を排除せず、相手と自分の考えの相違の根拠を見つめ、互いの合意点を見出すために、自分の<知>を深めることだと思います。
その際、思考の視座は、あくまでも、庶民の立場に置きたいと思います。国や政府の立場で私たちが考えると、情報・知識豊かな彼らに歯が立ちません。
国に対しては、庶民の立場で物申すことが、国の政策を変える道だと思います。と同時に、情報や知識豊かな国に対等に物申すには、私たち庶民にも、<知>は必要です。
そのために、書を読み、図書館を利用することです。
今のように、ネットを介して、異なる意見に憎悪と嘲笑をもって排除せんとする風潮には、強く違和感を覚えます。それはまじめに考えようとする大多数の人々を沈黙させるだけでなく、考えることにブレーキをかけてしまいます。
本8月号はそのために、1編の新聞記事と一冊の本を紹介します。
新聞記事は、今のロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ地区無差別攻撃の現状を、見聞きするなかで、私たちの世代の戦争及び戦後体験が、子どもと孫の世代に、継承できればとの思いで掲載しました。
後段で紹介した本『戦争はどのように語られてきたか』は、戦前の満州事変から太平洋戦争敗戦にいたるまで、軍部や政治家、ジャーナリズムに強い影響力を持った指導者、及び敗戦後から社会主義ソ連崩壊前の民主化思想の主要な論説が、異端も含めて、取り上げられています。
いずれも、既に歴史的事実が結果として明らかですので、これらの論説を批判するのは、素人でも、容易です。しかし、戦前なぜそれが支持され戦争に至ったのか、戦後それをどう克服しようとしたのか、思想面から確かめたいと思います
なお、本書に取り上げられた人々について、私自身名前を知っている程度で、著作を読んだ人は数人に留まります。今回あらためて、彼らの論説を読みました。
文責 編集部 井藤和俊
シベリア抑留中に死亡 父の遺骨65年ぶりに帰宅 冨田さん
2008年9月17日 熊本日々新聞 転載
第二次世界大戦後、旧ソ連のシベリア抑留中に死亡し現地に埋められた遺骨のうち一柱が、菊池市七城町台(うてな)の会社社長富田芳美さん(65)の父 正俊さんのものであることが、厚生労働省の調査でわかり、十六日出生から約65年ぶりに遺族の元へ戻った。
遺骨は03年に政府派遣の収集団が、シベリア南部のロシア連邦ハカシア共和国の収容所埋葬地で収集。DNA鑑定などの結果、正俊さんのものと確認された。芳美さんが小学生のころ遺骨のないまま葬儀を行った。
芳美さんの母マスオさんは、農業で正俊さんの両親と芳美さんとの暮らしを支えた。十三年前七十七歳で亡くなったマスオさんを思い、芳美さんは「遺骨の帰宅を母が一番喜んでいるはず。収集に関わって下さった方々に感謝したい」と話した。
厚労省によると、シベリア抑留者約60万人のうち少なくとも5万5千人が現地で死亡した。日本政府は1991年からシベリアでの遺骨収集を続けており、今年3月末までに1万6672柱を持ち帰った。これまでの県内では、冨田さんを含め十四人の遺骨が遺族に引き渡された。
本の紹介「戦争はどのように語られてきたか」
河出書房新社
この書には、普段はなかなか手にすることのない貴重・希少な21人の論説が取り上げられています。その中から二人、更に21人の他から、あとひとり紹介します。
戦前の指導者は、超エリート、超秀才です。それがなぜ、中国大陸に満州国という傀儡国を造り、アメリカ相手に勝てない戦さを始めたのか?
その戦争イデオロギーの「最終戦争論」の提唱者「石原莞爾」を紹介します。
戦後の知識人が、どのように「戦争」を思想的に総括したのか、各人各様ですが、そのひとりとして、熊本で石牟礼道子とともに、水俣病の運動に尽力し、庶民に視座を置く思想家として著名な「渡辺京二」を紹介します。
この書では取り上げられていないのが、「石橋湛山」です。彼は数少ない、リアリストの言論人(東洋経済新報)であり、政治家(戦後 首相)でした。
彼は、戦前においても、軍事力による膨張主義を批判し、平和な貿易立国を目指す「小日本主義」を提唱しました。戦前の弾圧に屈せず、言論を守り抜いた稀有な人材です。
「戦争はどのように語られてきたのか」 河出書房新社
石原莞爾の「最終戦争論」は、戦前、満州事変(1931年)、満州建国(1932年)、太平洋戦争全般を通じて、大きな思想的影響を与えています。(1940年講演を立命館出版部出版)
しかし、その理念が空理空論でしかなかったことは、現実の中国やアジアにおける戦争にて明らかです。
彼が唱えた「最終戦争論」は、<軍隊による「持久戦争」の時代から、全国民による「決戦戦争」の時代へ。決戦戦争の敗者は国を失い、勝ち残った勝者は、次の国と決戦し、その最終戦の勝者が、全ての国を滅ぼして、世界平和を実現する。その最終戦は、日本とアメリカの戦争である>というものです。
軍事戦略としては、当時にあっては、画期的で、満州建国のイデオロギーとなり、太平洋戦争全般の指導理念となったと思われます。
しかし、その核心になる<東亜の盟主>論は、観念論です。
<悠久の昔から東方道義の道統を伝持遊ばされた天皇が、間もなく東亜の盟主、次いで、世界の天皇と仰がれることは、われわれの堅い信仰であります。・・・天皇が東亜諸民族から盟主と仰がれる日こそ、即ち、東亜連盟が眞に完成した日であります。>
<東亜の盟主>には何の根拠もなく、<八紘一宇>も空語です。
現実には、中国大陸でも、東南アジア地域においても、日本軍の諸行は、例外的に融和の事例があったものの、殆んどは現地人と敵対し、米軍に追われていました。
観念的な世界認識が誤っていれば、どれほどの悲劇を生むか、その見本のような「最終戦争論」です。それは果たして、過去のことでしょうか?イスラエルは?イスラム諸国は?ロシアは?
「戦争と基層民―天皇制国家の円環」 渡辺京二著
渡辺京二氏は、熊本に住み、石牟礼道子とともに水俣病の運動に尽力してきた在野の思想家です。彼の思想の特徴は、民衆を視座にして語ることです。戦争論もその視座で一貫しています。
彼は民衆を「基層民」と位置付け、軍官僚や右翼言論人たちを「中間イデオローグ」、天皇側近の政府首脳を「支配エリート」と位置付け、この三者の相互依存関係を解き明かします。
支配エリートは天皇を国民支配の手段(天皇機関説)として、軍部(中間イデオローグ)をコントロールしますが、軍部はそれを逆手に、国民(基層民)に天皇神格化を迫り、村落共同体意識を結び付け(天皇の赤子・村の名誉)、民衆の好戦意識(軍人賛美、立身出世)を煽ります。為政者(支配エリート)は民衆の好戦意識の高揚に煽られ、無謀と知りながら、対米戦争へと突き進みます。
民衆は敗戦により、天皇神格化の幻想を知り、占領統治(農地解放、民主化、新憲法)を受け入れます。
渡辺京二氏は、民衆(私たち庶民)は、為政者や中間イデオローグの言葉ではなく、自らの言葉を持つことの必要性を訴えているのです。
石橋湛山 思想は人間活動の根本・動力なり 増田 弘 著
戦前、軍が政治軍事を壟断している時代に、敢然と「満州放棄」を主張した言論人「石橋湛山(東洋経済新報社社長)」は、戦後政界に出て、総理大臣になった(昭和31年)のですが、病のため間もなく退陣したので、彼を知っている人は少ないでしょう。
石橋湛山は、明治44年東洋経済新報社に迎えられ、「小日本人主義」「満州放棄」を主張しました。
当時政府と軍部は、欧米諸国をアジアから駆逐した「日本盟主論」の下、大東亜共栄圏構想の実現を国是としていました。
これに対して、石橋湛山は、政府や軍部は、人口過剰、資源の乏しさを理由に、海外移民や満州開拓を言うが、相手国の事情や農民を無視しては、現地のトラブルを招き、軍を派遣するなど国際的な問題に発展し、移民の収益より無駄な経費が増加する。相手国の商工業の発展を援助し、貿易を活発化するほうがよほど双方の利益と親和につながると「小日本主義」「満州放棄」を主張したのです。
さらには、日本が当時保有していた中国、朝鮮半島、台湾などの権益の返還、朝鮮独立を主張しています。それが、アジアの安定と日本との友好関係に大きく貢献するというものでした。戦前の言論思想弾圧の厳しいなか、石橋湛山は主張を曲げませんでした。
戦後の今日から見ると、実に慧眼であり、稀有な人材だったと言わざるを得ません。
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