くらしが図書館だった 松岡紀代子
1944年4月、父が硫黄島へ出征した後、母は生後3か月の妹と3歳のわたしを連れて隈府へ来た。北原のある方の長屋のひと間を借り住んだ。そこで終戦までの日々はB29の音、サイレン、空襲警報の声、防空壕への避難、そして暗
く、さみしく、こわい日々の連続だった。
どうして戦争にいった父は、帰ってこないのか、わからなかった。家主さんが、『お馬のおや子』―帰ってこない父馬を探して、母馬と子馬が旅をするという話―を読んで下さって、わたしも母と妹と、電車と汽車に乗って、父を探しに行きたいと思った。
1947年、隈府小学校に入学したが、3学期から荒尾市府本小学校に転校、くらしが大きく変わった。養父は万田炭坑で働き、姉と兄がふたり。なんと7人で暮らすことに。上の兄は、府本町の青年団長で、冬の集まりには、連れていってくれたので、青年団のみんなからはかわいがられ、特にカルタ取り・百人一首は、おもしろかった。
“来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ”のカードは必ず、わたしにとらせてくれるのだ。“やくやもしほのみもこかれつつ”をわたしが勢いよく取ると、青年団のみんなが手をたたいて、ほめてくれた。(なぜかはおとなになってからわかった)
お嫁に行った姉からは『家なき子』をお年玉としてもらい、初めての本で、裏の権現さん(ここから長崎の落された原爆・きのこ雲が見えたと兄は教えてくれた)で、記念撮影を。(権現さんはお宮)家には『家の光』西日本新聞がとってあり、わたしの言語環境になった。小説連載『浮雲』(作者は二葉亭四迷)を切り抜き、細長い綴りなどにした。高校1年の兄の物理の教科書も興味に深かった。
中学1年国語に芥川龍之介の『トロッコ』が。府本町には小岱山の麓に2つの炭坑があり、早速、炭坑の坑口から石炭を載せて出てくるトロッコを見に行った。父からは、時々落盤事故のことは聞いていたが、府本・小岱山へ向かう道に大きな穴(落盤)があき、村の人たちが古畳や蓙を投げ入れ大さわぎだったこともあった。
中学3年、2学期から養父が炭坑をやめたのを期に、また隈府に。1957年(昭和32年)のこと。次の年、隈府町は菊池市に。
自分が住んでいるところに図書館(菊池市では「館」ではなく「室」だったように記憶しているが)があって、自由に本を借りたり、調べたりできるということは、中学生時代は知らなかった。但し、学校には図書室があり、本は整備されていた。
菊池高校で火事があった。入学式の日の夜で、私は3年になったばかりの日。近くに住んでいたので、急いでかけつけ、新校舎の図書室から本が投げ出されるのを拾い集めた。音楽室から、ピアノが外に運び出されており、誰が出したんだろうとふしぎに思ったものだった。
今、菊池市では、公共図書館と学校図書館の連携強化を図り、双方が活性化する取組みがなされているそうだ。
その究極の目的は、市民一人ひとりが、主体が育ち、つながり合って、人権豊かなまちを創っていくことにあると思うのだが。
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