とっておきの
熊本・菊池の歴史アラカルト (19)
『菊池の偉人・賢人伝』⑩-渋江公穀
堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)
渋江公穀(信一郎・治郎助、一郎次、1830~1881、享年52歳)は涒灘の次男、父涒灘の没する1年前、弘化二(1845)年五月に16歳で家督を継いだ。幼少にして俊敏・英発の聞こえ高く、父涒灘から家学(「古学」)の薫陶を受けながら、後の第五代時習館教授近藤淡泉(英助)の塾にも入門、経義(四書・五経、十三経などの意義)・文辞(修辞)を学んだ。また剣術・躰術・砲術などの武術にも秀で、藩庁の賞与を受けている。
公穀は、万延・文久(1860~1863)の頃、32歳の時に藩命で「菊池郡文芸教導師」に、また34・5歳頃再び藩命で「八代郡種山郷文学教導師」に任じられ、明治維新で種山学舎が廃止されるまで、子弟の教育に当たり、「毎歳米若干苞(つと)」を給米として下賜された。
菊池に帰った公穀は、明治七(1874)年に県命により「学区取締役」となり、「菊池郡未だ小学の設有らざる」時、郡内小学校の創設に奔走・尽力、「数校を起こし、実にこれ郷学校の嚆矢(こうし、最初)」であった。最後は水源村四丁分小学校校長として教育の振興に努めた。
公穀渋江先生之墓
その公穀の人となりは、「硬性の風格」かつ「豪放快活」「不覊磊落」「豪傑風」で、数々のエピソードがある。嘉永五(1852)~六(1853)年の天草への『南遊日記』には、老母への恩顧や弟公木(晩香)への兄弟愛を詠じた数編の漢詩が所収されている。
また墓碑銘によれば、「君、豪邁(ごうまん、豪気が勇み立ちひたすら進む)にして不覊(ふき、縛りつけられない)、矜傲(きょうごう、自負心と驕り)は物を凌ぐ(普通ではなかった)。是を以て往々世と合わず。然れども人の窮貧を恤(あわれ)み、財を擲(なげう)って之を救ふ。人の急難に奔(かけまわ)り、身を挺して之に代わる。是れ人を憫(あわれ)み、義に赴くの意、殆ど天性に発するかな、抑も其の抱負、極めて大にして、其の時に遭(あ)はず。其の力を展(の)ぶるところなくして、僅かに磊落(心が広く快活でこだわらない)・奇偉(珍しいほど優れて立派なさま)の名を得て、乃ち没したるか」と記す。
『菊池郡誌』には、「公穀の磊落、天性に出づ」の例として、山林管理の役人が隈府町某家に宿した時、たまたま一緒に酒を飲んだ。その役人があまりにも驕り高ぶり、傍若無人であったので、公穀は貴殿は草木を管理しているが、自分は万物の霊長たる人間を訓育し、陛下の臣民を教導していると言って、役人の上座に座り平然としていたと記されている。
また明治十(1877)年「西南戦争」で薩摩軍が隈府に駐屯していた時、「順逆を弁えぬ朝敵だ」と自家の槍を取り出して研ぎ、家の者をひやひやさせた「豪傑ぶり」も伝わっている。
公穀は晩年正観寺村から南古閑村に転居、弟晩香の家族とは一家同様の付き合いであった。公穀の妻は田尻氏、長男豊彦、次男良藏、長女春、次女冬の二男二女がいた。公穀は突然重篤な症状で伏し、明治十四(1881)年三月十六日に死去、享年52歳、墓は輪足山の渋江家墓所内にある。(写真)
公穀の後継者の豊彦は「稍々精神状態も平静ならぬ様子」の病状があったが、幼少から「秀才の聞え高く、学業群を抜くの故を以て、賞賜を受け、弱齢十六早くも隈府小学校で教鞭を執るに至った」が、「前記の病によって職を辞し」、健康回復後には袈裟尾小学校長に任じられた。しかしまた発病して辞職、その後「村内の児童を集めて読書を指導」していたが、明治二十二(1889)年十二月、享年28歳で病没した。
山口泰平は前掲の『肥後・渋江氏伝家の文教』の中で、渋江家の性格について、「松石先生の血脈には硬軟の相反した性格」のものが同居していたと記している。松石の長子龍淵は「狷介・不覊・孤高・隠逸の風格」であり、三子涒灘は「温厚・和順・禮敬・謙譲の徳性」があったと評す。
涒灘の長子平之進(公温)は、本家勝真の養子となって、「天地元水神社」の神職を継ぎ、次子公穀は、父の後を継嗣し、酒豪の上「硬性の風格」であった。また三子公木(晩香)は「軟性の徳風」があり、長じて「遜志堂」を開塾、「大先生」と称され、晩香の長子公寧は父の片腕として「小先生」と言われていた。つぎの表は三人の私塾に関するものである。
塾主 渋江公穀(涒灘次子) 私塾名 菊池郡文芸教導師 ・八代郡種山郷文学教導師
所在地 菊池郡隈府町・八代郡種山郷
期間 万延元(1860)年頃?~明治十四(1881)年(20年間)
教科 漢籍 門人数 不詳 年齢 制限なし 報酬 寄贈
渋江公穀(信一郎・治郎助、一郎次、1830~1881、享年52歳)
渋江公穀は、父涒灘の没する一年前、弘化二(1845)年五月に家督を継いだ。公穀は幼少にして俊敏・英発の聞こえ高く、父涒灘から家学(「古学」)の薫陶を受けつつも、後の第五代時習館教授近藤淡泉(英助)の塾にも入門して経義(四書・五経、十三経などの内容・意義)・文辞(修辞)を学んだ。また剣術・躰術・砲術などの武術にも秀で、藩庁の賞与を受けている。
・「文芸教導師」
『菊池郡誌』所収の中西牛郎撰「渋江公穀墓碑銘」その他によれば、万延・文久(1860~1863)の頃、三十二歳の公穀は、藩命によって「菊池郡文芸教導師」に任じられ、三十四・五歳頃には、再び藩命により、今度は「八代郡種山郷文学教導師」に任じられ、明治維新で種山学舎が廃止されるまで、子弟の教育に当たり、「毎歳米若干苞(つと、給米)を賜う」と記されている。
菊池に帰った公穀は、明治七(1874)年には県命により「学区取締役」になり、「菊池郡未だ小学の設有らざる」時、郡内小学校の創設に奔走・尽力し、「数校を起こし、実にこれ郷学校の嚆矢(こうし、最初)」とされた。最後は水源村四丁分小学校校長として教育の振興に努めた.
・公穀の人となり
山口泰平は公穀の八代郡種山郷文学教導師時代の調査を試み、その直弟子の江崎四郎翁を探し出し、公穀は「硬性の風格」に加えて「豪放快活」「不覊磊落」「豪傑風」であった数々のエピソードを聞き出している。
山口は前掲の『肥後・渋江氏伝家の文教』に「孝悌の人渋江公穀」の項目を設け、嘉永五(1852)~六(1853)年の天草への『南遊日記』を所収、老母への恩顧や弟公木(晩香)への兄弟愛を詠じた数編の漢詩を紹介しています。(212~218頁参照)
また前の墓碑銘には「君、豪邁(ごうまん、豪気が勇み立ちひたすら進むこと)にして不覊(ふき、縛りつけられないこと)、矜傲(きょうごう、自負心と驕り)は物を凌ぐ(普通ではない)。是を以て往々世と合わず。然れども人の窮貧を恤(あわれ)み、財を擲(なげう)って之を救ふ。人の急難に奔(かけまわ)り、身を挺して之に代わる。是れ人を憫(あわれ)み、義に赴くの意、殆ど天性に発するかな、抑も其の抱負、極めて大にして、其の時に遭(あ)はず。其の力を展(の)ぶるところなくして、僅かに磊落(心が広く快活でこだわらないさま)・奇偉(珍しいほど優れて立派なさま)の名を得て、乃ち没したるか」と記されている。
『菊池郡誌』には、「公穀の磊落、天性に出づ。一日懸の山林官某(それがし)、隈府町某家に宿す。会ま(たまたま)公穀と飲す。某、驕慢矜傲(きょうまんきょうごう、驕り高ぶり、傍若無人で気位の高いさま)の色もあり。公穀曰く、汝は草木を統率す。余は萬物の霊長たらん人を訓育し、陛下の臣民を教導するものなりと。遂に上座に着席して、平然たりしといふ」一文が掲載されている。この他にも、明治十(1877)年「西南戦争」の時、薩摩軍が屯する中、「順逆を弁えぬ朝敵だ」と自家の槍を取り出して研ぎ、家人をひやひやさせたという「豪傑ぶり」を示す挿話がある。
公穀は晩年正観寺村から南古閑村に転居、弟晩香の家族とは一家同様の付き合いであった。公穀の妻は田尻氏、長男豊彦、次男良藏、長女春、次女冬の二男二女。公穀は突然重篤な症状で伏し、明治十四(1881)年三月十六日に死去、享年五十二歳、墓は輪足山の渋江家墓所内にある。(写真)
公穀の後継者の豊彦は「稍々精神状態も平静ならぬ様子」の病状があったが、幼少から「秀才の聞え高く、学業群を抜くの故を以て、賞賜を受け、弱齢十六早くも隈府小学校で教鞭を執るに至った」が、「前記の病によって職を辞し」、健康回復後には袈裟尾小学校長に任じられた。しかしまた発病して辞職、その後「村内の児童を集めて読書を指導」していたが、明治二十二(1889)年十二月、享年二十八歳で病没した。
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