古典への誘い「紫式部日記」 井藤和俊
「源氏物語」の作者紫式部の名は誰もが知っていることでしょう。
その紫式部が書いている「紫式部日記」に興味を抱いたのは、あの時代に紫式部はどうしてあの華やかな宮中の人物造形した物語を書くことができたのか?と思ったからです。
「日記」は紫式部が仕えた一条天皇の中宮「彰子」(しょうし)の初の皇子の出産から始まり、出産後の行事の様子、その場に侍る公家、仕える女房の衣装や立ち振る舞いが非常に細かく具体的に描かれています。
日付も記されています。「八月廿十余日の程よりは・・・」とあり、以下「廿六日」「九日」と続き、「十一日」に、出産したと記載されています。
以後、十七日「産養」(うぶやしない)の儀式、「御五十日」(十一月一日)に赤子(若宮)に餅を含ませる儀式など書かれています。なお翌年正月三日若宮の頭に餅を載せる儀式(戴餅)も記載されています。
この出産にまつわる公家や女官たちの立ち居振る舞いときらびやかな衣装が、実にきめこまかく描写されています。
この日(十一月一日)は、式部本人のことが、数か所でてきます。
左衛門の督(藤原公任)が「あなかしこ、此わたりに、若紫やさぶらふ」と式部を指しています。若紫はむろん紫式部を指しています。
御帳の後ろに隠れていたのに、藤原道長から「和歌一つつかうまつれ、さらばゆるさむ」言われたため「いかにかがかぞへやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば」と詠み、
道長に「あしたづのよはひしあらば君が代の千歳の数もかぞえとりてん」と返されます。
大勢の公家や女房が居並ぶ中で紫式部が道長から名指しされたのは、いかに紫式部の才能が評価され寵愛されていたかを示しています。
中宮が内裏にもどどる際の手土産に「御前には、御冊子つくりいとなませ給とて・・・色々の紙選りととのへて、物語の本どもそへつつ、ところどころに文書きくばる。」
「物語の本」すなわち「源氏物語」を書く紙(当時は貴重で高価な紙)を渡されているのです。
「紫式部日記」は正月三日の「戴餅」の儀の記述にて、記録としての日記は、中断しています。
以後「紫式部日記」は、宮中での人事消息、容姿批評、式部本人の心情の記載に割かれています。有名なくだりを紹介します。
紫式部の父為時は、式部と弟惟規に漢籍を教えますが、式部がはるかに覚えがよく、為時は「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸なかりけれ」と嘆いたとあります。
和泉式部については「和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。・・・歌はいとをかしきこと。・・・」と評価していますが、清少納言については「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書きちらして侍ほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。・・・」と、厳しい評価です。
紫式部が仕えた中宮彰子の前の中宮定子に仕えた清少納言に対する強烈なライバル意識があったのでしょう。
源氏物語を書くことが中宮彰子の出産に立ち会ったことは、光源氏の物語の造形に深く影響したのではないでしょうか。
36部もの大作を、読む人の心もちをグイと引き寄せ、物語に引き込む構想力は、この「日記」に示される、実にこまかな観察と描写によっても、うかがい知ることができます。
また、長編の「源氏物語」を書くことができたのは、藤原道長とその娘中宮彰子の後ろ盾があり、当時高価な紙をふんだんに使うことができたからでしょう。
なお、「紫式部日記」の詳細かつリアルな宮中の様々な儀式や人物の描写は、平安貴族の生活を知るうえで貴重な第一級の資料にもなっています。
それにしても、式部の知力と筆力の素晴らしさには、驚嘆します。「源氏物語」が現代文学、世界文学に比肩できる古典であり、世界各国で翻訳されていることは、なるほどと思います。
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