本の広場 遠藤周作「最後の殉教者」を読む
どこかで、文学フアンに「戦後最高の文学作品は何か」とアンケートを取ると、1~3位を三島由紀夫「金閣寺」、大岡昇平「野火」そして遠藤周作の「沈黙」で占めるのが常だとどこかで読んだ記憶があります。ご紹介する「最後の殉教者」は名作「沈黙」の数年前に書かれた原型であると同時に、遠藤文学のエッセンスが詰まった短編です。
江戸時代末期。舞台は浦上の中野集落。幕府が迫区を辞め、日米通商条約が結ばれたことによって、再び宣教師たちが日本を訪れるようになっていた。彼らの仕事はまず天主堂を建てることと隠れキリシタンと接触することであった。が、長年隠れていたキリシタン達が、そうそう現れることはない。依然基督教は禁止されていたからである。こっそり信者の居る村を訪れ、交流しようと試みる宣教師達の動きを役人達には坂手に取られる。つまり宣教師を追えば、「隠れ」の一網打尽の絶好の機会を与えることになる。
浦上のキリシタンは過去幾度も迫害を受けている。そうなった場合「中野」では「絶対転ぶまい」と誓いあっているが、異様なまでに気弱な喜助という青年がいて、「喜助は臆病かけん、いつかゼズス様ば裏切るユダのごとなるかもしれんのう」と皆心配している。
村の若い組衆の甚三郎、喜助らは密かに聖堂の代わりに使っていた納屋で縄に掛けられる。案の定、喜助は自らが拷問に逢う前に牢屋で「おいは、もうもてん。ころぶけん。お役人さん、ころぶけん。」と叫んでしまう。(そして解放される)
後に甚三郎らは、津和野に移送され、再び拷問を繰り返される。
どうしても転ばない者達には、肉親を津和野に連行して鞭打ち、泣き叫ぶ声を聞かせるという新たな手立てが待っていた。
ここで読者は疑問に晒されるのです。「本来、宗教とはヒューマニズムではないか?
転んだ喜助が人間らしく、弟の命を救うために転宗を選ばなかった甚三郎こそ非人間的ではないのか?」と。
身内を失った甚三郎も「なんでゼズス様は助けてくださらんとやろか。」と、信教を疑り初めています。また、村を一人離れ、気ままに暮らしていた喜助も、どうしても信教を捨てきれず、仲間を裏切ったこと良心の呵責を感じていたのです。
自身信者でありながら、基督教に承服できかねるところがあるという遠藤周作らしさ溢れる一篇です。甚三郎、喜助双方にとって悲劇であるにも関わらず、救いも残されるラストが見事です。『沈黙』を既読の方にも、また遠藤作品を未読という方にもお勧めします。
( 投稿者 H.I 記 )
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