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[2022年8月号] 古典への誘い「太平記」


 古典への誘い 「太平記」

 「平家物語」に続く「太平記」は、鎌倉時代末期、北条高塒の失政、後醍醐天皇から始まる軍記物です。

 「『太平記』は、正中の変から元弘の乱を経て鎌倉幕府が滅亡するまでを描く第一部)(巻一~巻十一)、建武新政権の発足後、足利と新田の対立から新田義貞の死、後醍醐天皇の崩御までを描く第二部(巻十二~巻二十一)、足利幕府内部の権力抗争に南朝の動きがからまって動乱を繰り返す中に、細川頼之が将軍義満を補佐して執事に就任、一応平和を迎えるまでを描く第三部(巻二十二~巻四十)の都合三部に分かれる。」

(新潮日本古典集成 太平記二 山下宏明 校注 解説 P449 より抜粋)

 古文で長編なので、私たち素人が、原文(各種あり)を読み通すことはできませんが、 訳文は、注や解説、読み仮名まで付いていて、ずいぶん読みやすい本になっています。

 現代文としては、吉川英治の「私本 太平記」(一~八)講談社版 があります。

「太平記」は、長編ですが、ひとつひとつの節話は短く、講談、浪曲の種本になって、戦前まで大衆娯楽の花形でした。年配者は誰もが、その節話の幾つかは知っておられるでしょう。ただし、戦前の天皇神格化の影響で、戦後は、語られることはなくなり、今の若い人たちは、興味もないかもしれません。

 しかし、歴史が後代まで伝えられるには、書物で読める人は、ほんの一部の上流階級、支配階級に属する人だけでしたから、庶民には、物語化は必須でした。

 今の私たちは、歴史的事実と、想像された物語、フイクションとの識別は、無意識のうちにしています。それは、「読書」が養った力です。


 ところで、「太平記」では、菊池氏は、南北朝時代は、南朝方に付き、第十二代菊池武時が、幕府方の九州探題北条英時を攻める所から、登場します。(巻第十一 筑紫合戦の事)

 元弘3年(1333年)三月十三日 武時はわずか百五十騎で、今の博多 櫛田神社の 九州探題を攻めますが、少弐・大友の裏切りで、敗れます(博多合戦)。その時、息子武重と武光を呼び、菊池へ帰って、再起を期すよう命じます。

 武時の辞世の一首「故郷に今夜ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん」

(注)この節話は、菊池では「袖ケ浦の別れ」として、今も伝えられています。

 この節は、少弐、大友が北条に反旗を翻し、北条英時と戦い、英時が敗死して終わります。

結びの詩「行路難、山にしも在らず、水にしも在らず、ただ人情反復の間に在り」(白居易)

 

 こののち、菊池一族は、十五代菊池武光の時、勢力を挽回し、後醍醐帝の皇子「懐良(かねなが)親王」を抱いて、足利勢と戦い、勝利し、大宰府に「征西府」を置きます。

 以後の菊池一族の物語は、また次の機会にゆだねます。



 

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