とっておきの 2021年3月号
熊本・菊池の歴史アラカルト (6)
古代菊池川流域は百済文化圏 ①-「江田船山古墳」の墳形
堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)
写真 船山古墳の墳形と弁慶が穴古墳壁画
右上の写真は和水町江田にある「船山古墳」(前方後円墳)
です。百済王族系の副葬品が多数出土、その中には全国的に有名な75文字の銘を持つ大刀があり、鎺元(はばきもと)には馬・花・魚・鳥の具象象嵌が施されています。
今回は「船山古墳」の墳形について見ていくことにします。この墳形は、右下の山鹿市熊入にある「弁慶が穴古墳」(装飾古墳)壁画の柩を載せた船のように見えませんか。この壁画は被葬者の柩を船
(半構造舟)に乗せ、海の向こうの故国か黄泉の国への搬送する様子を描いたものです。
柩の上の「鳥」は古来死霊の葬送に深い関わりがあり、他界へ霊を導くもの、天上と地上を往来するもの、鳥の帰巣本能 写真 船山古墳の墳形と弁慶が穴古墳壁画
から方位を知るものとされていました。
両者はいずれも菊池川流域にある別々の古墳ですが、「船山古墳」の被葬者が百済王族系の人物であることから、壁画のように被葬者の霊魂を「半構造船」に載せて、故国百済へ送り届けていたかもしれません。この「船山古墳」は「半構造船」に柩を載せたたような墳丘の形から後日名付けられたものかもしれませんが、「船山」の「船」には「桶」・「棺」や「棺桶」、さらに「死骸を埋葬するための石棺」の意があり、また「山」は「塚状に盛り上がった墳丘墓」を指すことから、この古墳名はまさに当を得ています。しかしちょっと気になることがあります。
「船山古墳」の命名と変化 古朝鮮語 「先山」(ソンサン、선산)-「先祖の墓のある山」 ↓ 同一発音 「船山」(ソンサン、선산)-「前方後円墳」の墳形 ↓
倭読(和音) 「船山」(ふなやま)-地元の呼称
『日韓辞典』・『韓日辞典』によれば、ハングルの「先山」の発音は、“ソンサン(선산)”で「先祖の墓(のある山)」の意、「船山」も“ソンサン(선산)”と発音し、「死骸を埋葬する石棺に盛土した墳丘墓」の意ですので、両者の漢字は違っていても発音は一緒です。
おそらく上の図のような変遷があったのではないかと思っています。五世紀後半の築造当時、百済王族系被葬者の墳丘墓として「先山(ソンサン)古墳」と命名しましたが、その形状が石棺を載せた「半構造船」に似ていることから、やがて「先山」に同じ発音の「船山」(ソンサン)の文字が当てられるようになり、いつしかそれを和音で「船山古墳」(ふなやまこふん)と読んだのでしょう。(禁無断転載・使用)
【追加説明】
これまで「江田船山古墳」については、多くの考古学者や古代史研究者が各自の説を発表している。いずれの論文も多くの信憑性を持ち、読者たちを魅了してきた。私もその一人であるが、個人的にも研究を進め、『肥国・菊池川流域と百済侯国』(トライ出版 2014年)を出版、また「船山古墳出土大刀銘と菊池川流域三長者伝説の試論」(熊本県高等学校地歴・公民科研究会『研究紀要』第46号 2016年)を発表している。
詳しくは拙著や論文を参照してもらいたい。これからはそれらの内容に依拠して、各号に関係する私の「江田船山古墳」論(【自説】を含め)の論拠を紹介していくことにしたい。
1、「船山古墳」の呼称の変遷
(1)古墳の種類
(2)「船山古墳」の形状と呼称の僅少性
全国4700基の「前方後円墳」は、その墳形から全国的には「双子塚」・「ひょうたん塚」・「車塚」などの名称が一般的である。ところが「船山古墳」は「前方後円墳」であるが、その名称はその墳形が「船山」に似ていることから命名されているらしい。
しかし管見ながら、全国の「前方後円墳」で「船山古墳」の名称はほとんどなく、わざわざ「江田船山古墳」と古墳名に地名の「江田」を付けない研究者もいるほどである。
そうであれば、はたして「船山古墳」の名はその墳形から付けられたと断定するのは如何なものであろうか。前述したように「前方後円墳」の場合、「双子塚」・「ひょうたん塚」・「車塚」などの呼称が多いのに、なぜ「船山古墳」と命名されたのか。
確かに「船山古墳」という「前方後円墳」は、「船山」(半構造船)の景観を持つ墳丘であるが、「前方後円墳」では必ずしも「船山古墳」の命名は一般的ではなく、僅少か皆無である。そうすると、なぜわざわざ「船山古墳」と命名したのか。最近このことが非常に気になっている。
(2)ある疑問
そこで改めて「船山古墳」の呼称について考えてみた。その結果が前掲の【自説】である。即ち『国語辞典』によれば、「船山」の「船」には「桶」・「棺」や「棺桶」、即ち「死骸を埋葬するための石棺」の意味があり、「山」は「塚状に盛り上がった墳丘」の意味がある。
『日韓辞典』・『韓日辞典』によれば、「先山」(ソンサン、선산)には「先祖の墓(のある山)」の意味があった。そこで「船山古墳」築造当時の五世紀後半には、「先山(ソンサン)古墳」即ち「先祖の墓(のある山)」の意味で命名したのではないか。
そのヒントになったのが、蘇鎮轍氏の「船山古墳の被葬者は百済王の侯王」説であった。次回以降詳しく取り上げていくが、「船山古墳」の被葬者は「百済侯国」の王族である可能性は、その多くの副葬品から否定できない。
即ち五世紀後半の築造当時、「船山古墳」の被葬者(「百済侯王」)を埋葬した「前方後円墳」は、特別に「百済音」(ハングルの母語・吏読)で「先山(ソンサン、선산)古墳」と命名したのではないか。あるいは百済では墳墓はすべてそう呼称していたのかもしれない。
ところが「船山古墳」の場合、「前方後円墳」の経常が、山鹿市の「弁慶が穴古墳」の装飾壁画「船上の柩と鳥」のように見えた(あるいは見えるようになった)時点から、本来はハングルの「先山(ソンサン、선산)古墳」であったのが、その形状から同一の発音である「船山(ソンサン、선산)古墳」の漢字で表記するようになり、それがいつしか前掲の図「『船山古墳』の命名と変化」で紹介したように、「船山古墳」(ソンサンコブン)と言っていたのが、日本語(和名)で(ふなやまこふん)と読まれはじめるようになり、今日に至っているのではないかと推測している。おそらく菊池川流域が「百済文化圏」であったことも関係しているのかもしれない。
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