~友の会 菊池の歴史・文化を掘り起こす三大企画~
菊池の文化遺産~「菊池の昭和の歌人たち」目録編集~
菊池には戦後間もなく短歌を詠む人々が、菊池短歌会を設立し、
戦前、戦中、満州、朝鮮半島引き揚げの労苦、馴れない農婦の暮らし、農業、子育て、夫婦の愛情を詠い、歌作に励んでいました。その人々の合同歌集、個人歌集が、数多く出版されています。
それらの歌集は、農村としては希少な短歌集であり、菊池の文化遺産とも言うべき作品群です。私たち図書館友の会は、それらの歌集を市民誰もが読む事ができるように、2年後目録を完成し、,図書館及び関係者に寄贈する企画です。
菊池関係歌人出版歌集
黒木傳松「野鍛冶以後」竹野美智代「麥馬車」中原柳子「野天春秋」萩尾春美「桐むらさき」郷 松樹「土につぶやく」荒木みよ子「四句節」財津和子「雁来紅(かまづか)」「月光譜」矢加部友枝「廃棄道」牛島もりえ「春の光」渡辺憲吉「原野」山田とし子「カタルパの花」山下菊代「峡住(かいづみ)」「いさら川」菊川三和子「やまなみ」牛島 恵「青苔」石口とし枝「うぶ湯」江上ミワ「夕茜」中山栄子「菊池茶の香」佐々木かつえ「青野の虹」村上咲江「野いばら」山田 博「熟柿抄」堤 元和「黄炎」怒留湯健蓉「麦の庵」(順不同)
合同歌集
菊池短歌会「鞠智」 高齢者大学文芸部「渓流」 里短歌会合同歌集「菊池郷」 七城短歌会500回記念歌集 土筆短歌会合同歌集 菊池市教育委員会「月松」
菊池の西南の役
~田原坂だけではない 隈府街中・玉祥寺・高塚・南田島・水島などで激戦~
菊池の記憶の記録・伝承人 坂本 博氏
菊池市内の西南戦争に関わる文書や言い伝えなどの資料収集に、図書館友の会として
支援しています。興味のある方、資料収集、聞き取り調査に協力していただける方を求めています。
薩摩軍は田原坂の戦いに敗れ、田島村(泗水町)・隈府方面(菊池市)に退却します。薩摩軍は野々島(合志市)南田島(泗水町)に陣を敷き、官軍と激戦を繰り返しつつ、隈府には本営を置き、大津、津江(大分)方面への要路を確保し、山鹿方面からの官軍の攻撃に備えます。
山鹿で薩摩軍を破った官軍は、来民(鹿本町)から水島(七城町)を経て隈府への侵入をはかり、激戦となります。官軍の隈府攻撃は、城北村(菊鹿町)、米原、袈裟尾、玉祥寺、
へと進み、遂には、薩摩軍が大津へと敗走します。(七城町史・泗水町史による)
これらの戦闘の軌跡を、伝承含めて記録として残したいというのが、伝承人の企画の発端です。
菊池一族と今川了俊の戦い~水島・板井原~
南北朝時代末期、菊池一族は、南朝方として、懐良(かねなが)
親王を擁して、北朝方の足利幕府と対峙し、十五代菊池武光公亡き後、のちの十七代菊池武朝(幼名賀々丸)が、良成親王を擁して、足利幕府九州探題今川了俊と、数年にわたり激戦をくりかえしました。
その戦場が、七城町の台(うてな)城(別名 水島)であり、亀尾城(別名 板井原)です。
第1回目の合戦は、応永7~8年(1374~75年)、この時は水島の合戦で、今川勢の内紛に乗じて、今川勢を徹兵させました。
第2回目の合戦は、永和3年(1377年)水島の陣、板井原の陣で、今川勢を退け、詫間が原で勝利しました。
第3回目の合戦は、永和4~5年(1378~79年)板井原で今川軍は2年にわたり駐屯し、菊池勢の城をひとつひとつ落として、遂に、永徳元年(1381年)菊池本城は落城しました。
(七城町史・泗水町史による)
図書館友の会は、菊池における南北朝時代の戦と菊池一族の軌跡を、可能なかぎり資料を読み比べ、史実にない部分を想像力で補い、特定の史観によらない物語を作ってゆきたいと思います。
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