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[2020年9月号] 熊本・菊池の歴史アラカルト


2020年9月号

とっておきの                   

 熊本・菊池の歴史アラカルト (3)

私流「魏志倭人伝」の読み方 ①-「有」と「在」の使い分け

堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)



中国の史書『三国志』(魏・呉・蜀)といえば、蜀の劉備の軍師諸葛亮(孔明)による奇抜な戦略、また呉の孫権と協力して、魏の曹操を「赤壁の戦い」で破り、その後に漢を建国する壮大な歴史ドラマを思い出される方も多いでしょうが、これは明代の羅貫中の長編歴史小説『三国志演義』の内容です。

晋の陳寿撰『三国志』の『魏志』の『魏志倭人伝』には、AD3世紀前半の女王卑弥呼の「邪馬台国」に関して、里程・周辺国・祭政一致・宮殿・生活・風俗、狗奴国との抗争など(写真は一部)が記されています。わずか2000字なので、一緒に読みたいですね。

 「邪馬台国」までの行程・里程の解釈により、現在も「九州説」と「畿内説」が並立、多くの研究者たちが各自の論拠を示しながら、いずれかの説を主唱、「邪馬台国論争」はいまも続いています。        写真「魏志倭人伝」

 私も長い間、両説のいずれが正しいのか、判断が着きかねていました。再三再四読み直して気付いたのが、「魏志倭人伝」が魏使の魏皇帝への正確な「邪馬台国」の報告即ち「実録」であり、さすがに「漢字国」では「有」と「在」の使い分けが厳格になされていました。

 すでに『漢書地理志』(82年頃)の「楽浪海中有倭人」(楽浪の海中に倭人有り)、『三国志』(3世紀末)「魏志倭人伝」の「倭人在帯方東南大海之中」(倭人、帯方の東南、大海の中に在り)、『後漢書東夷伝』(432年頃)の「倭在韓東南大海中」(倭、韓の東南、大海の中に在り)にみられます。

 いずれも朝鮮半島の「東南」に「倭人」(日本)があるという意味で、一番古い『漢書地理志』では「有」、200年後の「魏志倭人伝」、350年後の『後漢書東夷伝』では「在」になっています。「有」は「聞くところによると」(伝聞・間接)、「在」は「間違いなく」(実在・体験)の意味の違いが使い分けられ、「倭人」は時代が下るにつれて、その存在が「伝聞」から「実在」になっていった経緯かよくわかります。

この使い分けは「邪馬台国」の「境界21カ国」の記述でも「次有斯馬国、次有已百支国」と伝聞・間接的な「有」が使用され、実在・体験的な「在」は一つもありません。研究者の中にはこの「有」と「在」の明確に使い分けず、魏使一行は「邪馬台国」だけでなく「境界21カ国」すべてを巡回したと解する人も多くいますが、はたして正しい「魏志倭人伝」の読み方と言えるのでしょうか。

 この「有」の使い方から、魏使は「邪馬台国」到着後、「邪馬台国」が「此女王境界所盡」(此の女王境界尽きる所)までの「境界21カ国」を配下に置いた「邪馬台国連合」であったことをはじめて知り、その実態に驚き、具体的に「境界21カ国」がどんな国か定かでないまま、ただすべての国名を列記して報告したのです。

以上のように、「有」に着目すると、魏使一行は「境界21カ国」のすべてを巡回したのではなく、実際尋ねたのは「邪馬台国」一国であったことがわかります。この魏使による「有」と「在」の明確な使い分けに着目したことが、私の「九州説」の重要な根拠の一つです。(つづく、禁無断転載・使用)

なお前号の10代崇峻天皇は「崇神天皇」の誤りでした。訂正してお詫びします。


【参考】

今から三年前に、熊本県高等学校地歴・公民科研究会『研究紀要』第47号(2017年5月)に、「「魏志倭人伝」を読み直す、拙論「邪馬台国」論争の再検討と終止符」を発表しています。その中から「邪馬台国」論争の経緯と諸問題について論じた一部をここに引用しました。これまで研究してきた私の「邪馬台国」論争の基盤をなすものです。

「邪馬台国」論争の経緯と諸問題

一、「中国古代文献」と「倭人」・「東鯷人」の記述

 各社の『高校日本史B』の教科書には、弥生中・後半期の「小国の分立」から「邪馬台国連合」に至る「中国古代文献」として、「漢書地理志」・「後漢書東夷伝」・「魏志倭人伝」が三点セットの資料として掲載されている。

周知の通り、これらの「中国古代文献」の時系列的な著作順は、「漢書地理志」(1世紀末)→「魏志倭人伝」(3世紀後半)→「後漢書東夷伝」(5世紀前半)である。当然ながら各文献には教科書の掲載以外の記事も多くあり、ここではそれらも必要に応じ、箇条書き的に紹介しながら論じていきたい。


1、「漢書地理志」(後漢の班固〔32~92〕撰、AD82年頃の著述)


⑴紀元一世紀頃の「倭人」と「東鯷人」の記事

・〔燕地〕「楽浪の海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」→「邪馬台国」の領域

・〔呉地〕「会稽の海外に東鯷人有り、分れて二十餘国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」→「狗奴国」の領域


図式化すると、


     倭人(100余国)― 楽浪―――→「邪馬台国」(30 余国に統一)

倭――(両方「倭種」) (定期朝貢)

     東鯷人(20余国)-会稽―――→「狗奴国」(20余国のままか)


 また耳慣れない「東鯷人」とは、「鯷」=「鯰」、会稽の東に位置する地域に住む倭人で、特に「鯷」(鯰)を信仰する倭種。地域的には「阿蘇山信仰」(火山・地震の神・農耕神・鯰信仰)を持ち、「邪馬台国」との位置関係(南)から「狗奴国」に比定できる。


 AD82年頃の著「漢書地理志」には上記のような〔燕地〕と〔呉地〕の記事がある。〔燕地〕の記事は教科書でお馴染みの「楽浪の海中に倭人有り、分れて百余国を為す」である。しかし別に〔呉地〕には「会稽の海外に東鯷人有り、分れて二十餘国を為す」との記述がある。

 これは古代中国における「倭」(倭人)と「狗奴国」(東鯷人)の所在地の把握と認識の度合いを示すものである。いずれもその所在地が「有」(間接的・伝聞的)の漢字表記であることに注目したい。


2、「後漢書東夷伝」(南朝宋の范曄〔398~445〕の432年頃の著、「魏志倭人伝」より後)


⑴「倭は韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡そ百餘国、武帝の朝鮮を滅してより、使訳の漢に通ずるは三十許(ばか)りの国なり。国皆(国々皆)王と称し、世世伝統(世襲)す。其の大倭王は邪馬台国に居す」


これは、BC108年頃以降、即ち「倭」が100余国から30余国に統合され、各自「王」と称し世襲した。「大倭王」とは「邪馬台国」の女王卑弥呼をさす。但しこの文は、編者の范曄が自らの歴史的知識を介在して、「漢書地理志」と「魏志倭人伝」の記述内容を結びつけて作り上げたものである。


⑵「女王国より東へ海を度(渡)ること千余里(70余㎞)、狗奴国に至る。皆倭種と雖も、而して女王には属せず」と「会稽の海外に東鯷人有り分れて二十餘国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」が併記されている。


以上の二説が 現行の「邪馬台国」までの里程の出し方であり、それぞれ「九州説」「近畿説」を主唱する研究者たちの基盤となっている。しかし最初からこの「九州説」・「近畿説」の両説があったわけではない。つぎのような経緯のもとに醸成されたことになる。

AD82年頃の「漢書地理志」の「楽浪の海中に倭人有り」が、432年頃の「後漢書東夷伝」では「倭は韓の東南大海の中に在り」と記され、「有」(間接的・伝聞的)が「在」(直接的・体験的)の表記に替っている。

即ち一世紀頃に「有」と表記された「倭」の所在地が、五世紀には「在」の文字に替っていることは、その所在地が「間接的・伝聞的」でなくなり、明確な所在となったことを示す。この間の三世紀後半には「魏志倭人伝」が著され、「後漢書東夷伝」の「倭」はすでに「邪馬台国」と同一視されている。

また「後漢書東夷伝」には「女王国より東へ海を度(渡)ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種と雖も、而して女王には属せず」と前掲の〔呉地〕「会稽の海外に東鯷人有り分れて二十餘国を為す。歳時を以て来り献見すと云う」の併記により、「狗奴国」〔魏志倭人伝〕と「東鯷人」〔呉地〕が同地域であることを示している。

【資料1】


二、「邪馬台国」の「九州説」と「近畿説」

【資料1】


1、「魏志倭人伝」(西晋の陳寿〔233~297〕の著)

「魏志倭人伝」の記事はよく知られているので、改めて引用しない。拙論の展開に則した部分を引用・掲載しながら見ていきたい。


⑴ 現行の見解-「邪馬台国」までの里程【資料1】

① 「近畿説」は「順次式行程」説をとる。「方角誤記説」から「南」→「東」などに修正する。

② 「九州説」は榎一雄の「放射式行程」説をもとに、「伊都国」を起点にした各当該国までの距離とする。但し里程・日数などを修正する。


以上の二説が現行の「邪馬台国」までの里程の出し方であり、それぞれ「九州説」・「近畿説」を主唱する研究者たちの基盤となっている。しかし最初からこの「九州説」・「近畿説」の両説があったわけではない。つぎのような経緯のもとに醸成されたことになる。


2、「九州説」と「近畿説」論争の発端と継続


⑴「邪馬台国連合」を「九州説」と「近畿説」のいずれかに比定する考え方

① 江戸期-新井白石〔九州説〕・本居宣長〔九州説〕×伴信友〔近畿説〕

② 明治期-白鳥倉吉〔東大・九州説〕×内藤湖南〔京大・近畿説〕

③ 現代-安本美典〔九州〈甘木・朝倉〉説〕×白石太一郎・山尾幸久〔近畿〈大和・河内〉説〕


現在これ以外にも数多の研究者や好事家による「邪馬台国」の候補地として、およそ77カ所もの比定地が上がっている。しかし研究者の多くは「邪馬台国」の所在地を「九州説」・「近畿説」のいずれかに位置付けて、自説を展開しているために、つぎのように⑵「卑弥呼」の墳墓や⑶「邪馬台国連合」と「狗奴国」の位置関係の考察も、この両説によって大きくその所在地が変わっている。


⑵ 「卑弥呼」の墳墓

・円墳(経百余歩=いき説30m?、伊藤説25m、白石説150mなど)

① 「近畿説」-時期的(三世紀中頃)に「箸墓古墳」(前方後円墳、墳丘長280m)に比定、ほぼ確定的とされている。

②「九州説」-具体的に有力な古墳の比定なし。今後の発掘調査に委ねられる。


⑶ 「邪馬台国」と「狗奴国」の位置関係

①「近畿説」-「狗奴国」(南→東の誤記、濃尾地方説)

②「九州説」-「狗奴国」(南、中九州地方説)


3、江戸期の「邪馬台国」の再検証

前の「九州説」と「近畿説」論争の発端について、安本美典編『江戸の「邪馬台国」』(柏書房 1991年)より、それぞれの諸説について略記しておきたい。


⑴ 江戸期の「邪馬台国」諸説

① 新井白石(朱子学者)『古代史或問』-「近畿説」(大和)→『外国之事調書』-「九州説」(筑後・山門)

② 本居宣長(国学者)『馭戎概言』(ぎょじゅうがいげん)-邪馬台国=「九州説」→「近畿説」 

③ 鶴峯戊申〔しげのぶ〕(国学者)『襲国偽僭考』-「九州説」、但し卑弥呼は南九州襲国(熊襲という国家)の女王

④ 近藤芳樹(国学者)『征韓起源』-「九州説」、邪馬台国は肥後の山門(菊池・山門)

⑤ 山片蟠桃(町人学者・儒学者)『夢之代』-徹底した「無鬼論」(無神論)者で、「九州説」・「近畿説」をともに否定


以上のように、江戸期の「邪馬台国」論は「九州説」が主流であった。中には新井白石のように「近畿説」から「九州説」に、また本居宣長のように「九州説」から「近畿説」への移行もあったが、「邪馬台国」は「九州説」・「近畿説」のいずれか一か所に絞られていた。

その上で、より具体的に「邪馬台国」は九州のどこにあったかが最大の関心事であり、新井白石は「筑後・山門」、近藤芳樹は「菊池・山門」という所在地の決定まで踏み込んでいた。


⑵ 歴史観と古代観の変移

 江戸期の「邪馬台国」諸説の出現は、古代の「古事記」・「日本書紀」成立以来、「記紀」中心の歴史観・古代観に固執していたが、その「魏志倭人伝」と「邪馬台国」の解釈からの歴史的脱皮または脱出の試みであり、「邪馬台国」の範疇を大和地域から九州地域にまで拡大したと言える。

 これは江戸期の「朱子学者」や「国学者」など和漢学者の「記紀」研究が、常に実証的であろうとする努力の大きな功績であった。この背景には江戸後期における儒学的実証・考証が、「国学」などに与えた影響の下で始めて可能になったことを指摘しておきたい。

ところが、新たに「邪馬台国」の所在地の問題に、従来の「大和」に「九州」が追加されることになり、明治以降の「邪馬台国」論争の端緒となった。


⑶ 明治期以後の「邪馬台国」論争

 明治期になると、白鳥倉吉(東大・九州説)×内藤湖南(京大・近畿説)の「邪馬台国」論争が開始され、現代では安本美典氏の「九州説」(甘木・朝倉説)×白石太一郎・山尾幸久氏の「近畿説」(大和・河内説)に代表される論争に引き継がれている。

近来の考古学の発掘・分析・研究には大きな進展があるが、それにもかかわらず、依然として結論らしきものが出ていない状態が続いている。



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