とっておきの
熊本・菊池の歴史アラカルト (4)
私流「魏志倭人伝」の読み方 ②-「旁国遠絶」の位置
堤 克彦(熊本郷土史譚研究所所長・文学博士)
前号の写真「魏志倭人伝」の終わりの「其南有狗奴国」(其の南狗奴国あり)も「有」となっています。これは魏使が直接「狗奴国」に行ったのではなく、「邪馬台国」で聞いた話であることがわかります。「邪馬台国連合」の女王卑弥呼と対峙していた「狗奴国連合」であったこともあり、「男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王」(男子王と為す、其官に狗古智卑狗有り、女王に属さず)とやや詳しい情報を得ていたようです。この「狗古智卑狗」が「鞠智彦」とする説があります。
また魏使は「自女王国以北、其戸数・道里可得略載、其餘旁国遠絶、不可得詳」(女王国より以北は、其の戸数や道里をおおまかに記すことができるが、それ以外の遠く隔てた旁国〔もう一つの別の国〕については詳しいことは分からない)と報告していました。
魏使一行は帯方郡を出て、狗邪韓国→対馬国→一大(壱岐)国→末廬国→伊都国を経て、女王卑弥呼の「邪馬台国」に到着していましたので、当然「女王国以北」にある狗邪韓国・対馬国・一大国・末廬国・伊都国・奴国・不弥国などについて「其戸数・道里」などは「略載」できるといっています。
しかし魏使は、それよりさらに北にある遠く隔てた「旁国」の詳しい情報は一切わからないと正直に報告しています。彼らは弥生期の「倭」(日本)には、「邪馬台国」以外にも複数の国家群(「多元国家」)があったことを認識していたようです。
それよりもっと驚いたことは、魏使一行が訪れた「邪馬台国」が周辺にある「境界21カ国」を配下に置いた「邪馬台国連合」であるという事実でした。魏使はそんな女王卑弥呼の「邪馬台国」ばかりの実情ばかりでなく、「境界21カ国」の国名を具体的に列記して、「邪馬台国連合」の実態を報告していました。
これが弥生期の「小国家分立」即ち「多元国家論」に依拠した私の「私流『魏志倭人伝』の読み方」によるもう一つの「九州説」の根拠です。「多元国家論」に依拠しても、「旁国」が必ずしも「ヤマト政権」とは限りません。しかし当時の「倭」国において「邪馬台国連合」に対峙する大勢力はやはり「ヤマト政権」が一番妥当ではないでしょうか。即ち「遠絶」の「旁国」とは「畿内地方」に成立していた「ヤマト政権」またはその「ヤマト政権連合」と考えて作成したのが上の地図です。
また当時魏使一行の旅程能力を考えた場合、行程・里程的にも「九州説」が最も妥当で、「畿内説」は不可能でないにしてもかなり無理があるようです。「邪馬台国」はやはり九州北部のどこかに候補地があって、女王卑弥呼が「邪馬台国連合」を統治していたと考えられます。(つづく、禁無断転載・使用)
【参考】
三、地域差文化圏と「多元国家」論
一体何故このように「九州説」×「近畿説」の論争が継続しているのか。その理由は奈辺にあるのか、その考察が不可欠であり、現在の考古学的成果に基づいて論述してみたい。
1、不可避な「多元国家」論の視点
三世紀前半の「邪馬台国連合」について考察する時、まずその発展過程を抑えておく必要がある。教科書的な説明であるが、各地域には、「群れ・ムレ」→「村・ムラ」→「小国・クニ」(江戸期の「郡」規模)群→「統合国家」(政権)という一連の形成過程があった。その結果、政権機構を持つ「国家連合」に発展し、「多元国家」群が並存的に群立する状況が存在するようになった。
「邪馬台国連合」の存在した三世紀前半の弥生期における「倭」に関して、多くの教科書が九州北部とその周辺部一帯に「銅矛・銅戈文化圏」、また近畿と瀬戸内海を囲む中国・四国の東部一帯に「銅鐸文化圏」、さらに瀬戸内海を囲む中国・四国の中・西部一帯に、即ち前の両文化圏の間に「平形銅剣文化圏」の地図を掲載している。
その後の考古学研究の成果をもとに、【資料2】のように従来の「銅矛・銅戈」「平形銅剣」「銅鐸」などの青銅器だけの出土状況ではなく、さらに多種多様な出土遺物に着目し、それらの地域的特徴の解明から、他にも複数の文化圏の存在が解明されている。
「邪馬台国連合」以外にも地域差のある文化圏(国家)群の存在が明らかにされ、三世紀前半の「倭」には、「邪馬台国」以外にも数多くの国家が群立していた状態、即ち「多元国家」群の存在が濃厚となり無視できなくなっている。
換言すれば、「魏志倭人伝」に記された「邪馬台国」と同規模か、それに類する国家規模や政治組織、それに独自の地域差文化を持つ「多元国家」群が存在することが確実となった。
【資料2】に示されていない「地下式横穴墓」・「地下式板石積石墓」をもつ南九州、さらに東北地方まで地域差文化圏を広げると、その「多元国家」群の数は間違いなく増加する。この「多元国家」群の視点を基盤に、これから「邪馬台国」に関する拙論を進めていくことが重要である。
⑴「魏使」が見たのは「多元国家」群のうち「邪馬台国」のみ
「魏志倭人伝」の記事の特徴は、里程・方位と政治機構・風俗・民情などの詳細な記述の部分とそれを伴わない簡略な記述の部分がある。例えば朝鮮半島→対馬→壱岐→伊都国と「邪馬台国」(女王国)は詳述されている。
おそらく詳述可能な理由は、魏使が実際その国に巡在して見聞したからで、倭人からの伝聞ではなかった。その傍証として、つぎの二例を挙げておきたい。
①「隋書東夷伝」の記述
「阿蘇山有り。其の石故無く火起り天に接するは俗に以て異と為し、因りて祷祭を行なう」(突如噴火により天高く上がろうとする時、習わしとしては異変とし、祈祷の祭りを行なう)
636年に編纂の「隋書東夷伝」には、阿蘇山についてこのようにかなり正確な記述がある。ただ「阿蘇山有り」と間接的・伝聞的な意味あいを持つ「有」の文字を使用しているので、隋使が直接「狗奴国」を直接訪ねて見聞したのではなく、隋使が「邪馬台国」で会った「東鯷人」から得た詳しい伝聞であった可能性が大きい。
前掲の『江戸の「邪馬台国」』には、すでに近藤芳樹がその著『征韓起源』で、この「隋書東夷伝」の「阿蘇山」の記述を引用・紹介しているが、ただそれは「邪馬台国」=「熊襲」説の根拠としてであった。(P.177)
② 古代中国使者の訪問の仕方
三世紀の「倭人」情報の有無について、つぎのように推測している。「魏使」は「邪馬台国」(九州地方)の情報を「帯方郡」経由で、すでに入手していたが、「ヤマト国」(近畿地方)の情報は「帯方郡」より「遠絶」の地域であったために入手できていなかったのでは
ないか。
その傍証として、南北朝期の一時期「征西将軍府」(大宰府)と「室町幕府」(京都)の「二元政府」があった時、当時の「明」には日本に関する正しい情報を得ていなかった。
建国者朱元璋(洪武帝)の明使は、はじめ懐良親王の「征西将軍府」(大宰府)を訪問し、日本の支配者と思っていた。その後明使は三代将軍足利義満の「室町幕府」(京都)を正式に訪問し、日本の支配者であることを知り、「日明貿易」を開始した例があった。この件も既に本居宣長著『馭戎概言』に「天皇政権の存在を知らず」という理由として取りあげていた。(『江戸の「邪馬台国」』P.58~59)
以上の二例から「中国古代文献」の記述の仕方には、「直接的な見聞は詳細に記録す
る」こと、「使者の訪問は先ず直近の国または政府であった」ことなどの共通点を見出す
ことができる。
そもそも使者が訪問先を間違えるということ自体、その背景に「複数国家」の並存、即ち「多元国家」群という前提が必要・不可欠ではないだろうか。
前掲の「「魏志倭人伝」の「邪馬台国」と「遠絶旁国」」は、つぎの「拙論「魏志倭
人伝」を読み直しての「邪馬台国」」の作図の一部である。
拙論「魏志倭人伝」を読み直しての「邪馬台国」
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