この絵は、15代武光の頃、10代武房の時に下西寺村に来住した延寿とその子延寿国村(延寿太郎)の子孫(藤左衛門国村か)の刀鍛冶工房で働く刀工たちの様子と延寿屋敷、その奥に西福寺の甍が見える想定で描かれたものかもしれません。
下西寺の「八坂神社」の境内には、延寿太郎が使用した古井戸跡があり、この付近に延寿国村(延寿太郎)の指導・経営する工房があったと推定されています。
『肥後国誌』に「延寿国村が墓、西寺村の内野間口村にあり。父は弘村と云ふ。生国は大和の者にて来国行が聟也。嘉禄元(1225)年の生にして九十九歳(1324年)にて死す。菊池に来て菊池延寿と号す。其の子国村は延寿太郎と云ふ。来国行が孫也。正中(1324~26)の頃六十三歳にて死す。その弟に国吉・国時あり。子孫大いに繁盛し、代々刀鍛冶の家となる。又国吉の子に国村あり。又末の延寿と云ふに藤左衛門国村あり。応永七(1400)年に死す。此の子孫及び弟子繁栄して、数十人に及べり。下西寺一ト橋に延寿屋敷あり。又今村の内木下、高野瀬村の内小路にも居住の跡あり。何れの代か槍千本鍛ひしが、今に菊池の千本槍とて少しは残れり。銘無れば工人知れず」と記されています。
また『菊池郡誌』では、延寿国村(菊池延寿)の出自は京都座の来国俊の妹と藤原弘村の子で、その子の「菊池延寿(太郎)屋敷」跡は下西寺村内の一ト橋付近とされ、「其の所の井を浚ゆれば、刃物抔出る」
と記されています。
江戸期の『肥後国誌』では、延寿国村の墓は「西寺村の内野間口村」にある「伝・延寿国村の墓」(写真1)に比定されていましたが、菊池市教育委員会の説明板には、八坂神社のすぐ裏の民家敷地内にある「右京・左京の墓」(写真2)が延寿弘村と延寿太郎の墓とされ、下西寺にはその証となる巻物が伝わっていたが、明治二十六年に焼失したと記しています。
📷写真3「一ツ橋」
また前掲の二著では「下西寺一ト橋に延寿屋敷あり」とあり、それを示す「一ツ橋」の石柱(写真3)が、県道53号沿いの「きくちのまんま」近くのコンビニ横の交差点の東側に建てられています。『肥後国誌』に記された「西寺村の内野間口村」にある「伝・延寿国村の墓」はここから50mほどしか離れていません。(「略図)参照)
一方教育委員会の八坂神社境内に建てた「八坂神社の沿革」や「延寿国村屋敷跡」の説明板には、「八坂神社の沿革」では「この境内地を屋敷と定め」とあり、「延寿国村屋敷跡」では「この(境内の)屋敷を本拠地として二百数十年間にわたって栄えてきた」と記されています。
また慶安年中(1648~51)の北山雪山編著『合志川芥』には、合志郡竹迫手永永村(現・菊池市泗水町永)に「国村は元此の所に住めり」という屋敷跡があって、「屋敷内に鬼水と云ふ清水あり。太刀を作るに有徳不思議の名水也。後に菊池に移りても、鬼水程宜しき水は無しとて、大事なる太刀の仕立は此の水を取り寄すると也。今は所の人にても知る人稀なり」と記されています。即ち延寿や延寿国村は最初永村に居住し、その後下西寺村に転居したともとれる内容です。
このように延寿系統の「刀鍛冶工房」と屋敷跡は、中世菊池氏の時代には下西寺一か所では刀剣などの供給を満たせず、他にも「今村の内木下」、「高野瀬村の内小路」など、菊池川・迫間川・合志川流域の各地には、河川の砂鉄を利用した大小数多くの「刀鍛冶工房」と屋敷がありました。
このように複数カ所に分かれていた「刀鍛冶工房」で製造された刀剣・鏃などは、武房が京都から刀工延寿を招いて以来、13代武重の「千本槍」の考案にも応えて短刀を数多く製造し、特に大宰府に懐良親王を中心に「征西将軍府」を開設するため、生涯戦さに明け暮れた武光にも十分応えたことでしょう。その総元締めが下西寺の延寿国村(延寿太郎)から続く子孫であり、集められた製品は一括して、歴代菊池氏に供出・納入してきたと思われます。
なお延寿国村の系図については、拙著『くまもと郷土史譚つうしん』第一号「刀工延寿国村と「千本槍」」(2011年度・第一期分所収)、『肥後国誌』の「今村の内木下」即ち「木下鍛冶」及び「木下家」のその後のことは、拙論「菊池・玉名の両「木下家」」(玉名歴史研究会編『歴史玉名』第25〔1996年春季〕号所収)、さらに「菊池千本槍」の歴史的位置づけについては、拙著『郷土史譚100話・菊池』(熊本出版文化会館 2007年)所収の第27話「菊池千本槍の虚と実」・第28話「菊池千本槍の真相」・第29話「中世の徒歩斬撃戦と槍」などを参照ください。(禁無断転載・使用)
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